2024年度 歴博歴史の旅・見学会

歴博歴史の旅   会員による会員のための見学会
5 月 6 月 9 月 11月 1 月 3 月





歴博歴史の旅

実施年月日  テーマ 講 師
2024年度は中止します。 





会員による会員のための見学会



実施年月日  見学会名 備考
2024年 5月9日(木) 国史跡「龍角寺古墳群・岩屋古墳」を歩く 参加:26名
 今回の見学地は印旛沼北東の台地上にある「龍角寺古墳群」で、その規模は前方後円墳37基、円墳37基、方墳6基、計115基を有する。年代は古墳時代後期から終末期にかけて築造されている。最初の「岩屋古墳」は日本最大級の方墳で、横穴式石室の入口柱には木下貝層の貝化石砂岩が使われており、地方色豊かな古墳である。
 101号墳は龍角寺古墳群の中で最大の墳丘径25mの円墳で、8人の埋葬や埴輪の多さが際立っていた。また、古代工法と現代工法での円墳製造比較(大林組試算)では、工期で3倍、費用で15倍近くを有するころから、当時の権力者の財力を含め、権力の偉大さを感じさせるものであった。
 風土記の丘資料館には、浅間山古墳の筑波石(雲母片岩)で構築された石室複製模型や龍角寺の資料などの展示があり、狭い資料館ではあるが、見どころの多い資料館であった。
浅間山古墳は古墳群の中で最大の前方後円墳で、現在後円部に浅間神社が祀られている。残念ながら樹木が生茂り全容確認が難しかった。
コース 岩屋古墳→坂田ヶ池堤防→101号墳→古墳群遊歩道→風土記の丘資料館→古墳の広場→浅間山古墳→房総のむら入口
集 合 風土記の丘 岩屋古墳・石室前 13:30 解 散 房総の村入り口 
16:00
案内会員 大野 吾一、三橋 俊一、浅生 武治、野平 和男 参加費 500円

岩屋古墳にて説明を聞く

岩屋古墳横穴式石室入口

101号古墳

房総風土記の丘資料館前での説明

房総のむら敷地内の旧学習院初等科正堂

風土記の丘資料館

古墳広場

浅間山古墳後円部の浅間神社を望む







実施年月日  見学会名 備考
2024年 6月3日(月) 江戸城三十六見附を歩く
  牛込見附から赤坂見附へ(追加実施)
参加:23名
見学した5つの見附の築造の情報は、
  牛込見附:  阿波徳島藩主蜂須賀忠英
  市ヶ谷見附: 美作津山藩主森長繼
  四谷見附:  長門萩藩毛利秀就が築造、門は旗本室賀正俊と大岡正清が築造
  喰違門:   旧武田家臣小幡景憲の縄張
  赤坂見附:  筑前福岡藩黒田忠之
とされている。では、喰違門を除く他の門は右折れ、左折れ、それとも直進かという疑問がある場合は、人文社の復刻古地図の江戸切絵図『外櫻田繪圖』『番町繪圖』『小川町繪圖』などを参照すると良い。此の地図には、桝形の中の番屋や他の設備などが表現されている。これらの見附を守る武器はと言う疑問は、大石学遍『江戸幕府大事典』吉川弘文館発行に載っている。また、見附の効果については、三田村鳶魚は『三田村鳶魚の江戸文庫6江戸の白波』中央公論社発行の中で大泥棒の減少を挙げており、岩淵令治は2010年歴博企画展示『武士とはなにか』の中で門番の警備以外の仕事として「掃除」の担当を記している。
なお、当時の御門の写真としては『旧江戸城写真帖』東京国立博物館、他、喰違門『絵本江戸土産』、赤坂門は長崎大学病院附属図書館にあると飯田橋駅前JR東日本の案内看板で紹介されていた。
コース JR飯田橋西口改札 → 牛込見附 → 外堀公園 → 市ヶ谷見附 → 四谷見附 → 聖イグナチオ協会 → 喰違見附 → 紀尾井坂 → 清水谷公園 → 弁慶橋 → 旧赤坂プリンスホテル → 赤坂見附 (現地解散)
集 合 JR飯田橋駅西口改札口(新宿寄り)
13:00集合
解 散 赤坂見附 16:00
案内会員 林田 秀孝、三橋 俊一、浅生 武治 参加費 500円

牛込門跡

阿波守内の石垣石の説明を聞く

雙葉学園前にて

JR四ツ谷駅地下展示
(江戸城外堀史跡展示広場)

喰違木戸門跡の説明を聞く

井伊家中屋敷跡

紀尾井ホール

清水谷

旧赤坂プリンスホテルのレストラン前で集合写真

赤坂見附での記念写真





9月

実施年月日  見学会名 備考
2024年 9月20日(金) 市原の古代(3世紀から8世紀)を歩く 参加:22名
 快晴で熱中症アラートが発生する中、2グループに分かれバスで最初の目的地である南田瓦窯跡に向った。上総国分寺の建て替え用の瓦だと大量生産になるので、登り窯かなと思ったが、説明によると有畔式平窯4基の他、粘土の採掘跡や貯蔵庫もあったそうだ。次の見学地神門5号墳は、隣の路地にあった。神門には1,2がなく、3,4,5古墳群があるのだが、築造順は古い方から5,4,3の順で、4,3号墳は現在消滅している。各古墳共、鉄剣、鉄槍、鉄鏃などの出土品があり、4号墳の出土品は歴博2室古墳のコーナーに展示されている。
 汗を流し、水分を補給しながら辿り着いた国分寺、建立の詔の写本は国分尼寺資料館に展示されていたが、詳細を知りたい方は『日本史資料 古代』岩波書店や『続日本書紀2巻』東洋文庫などで確認できる。僧寺で出迎えてくれたのは、唯一現存する金剛力士像とは言え、阿形像は鎌倉時代後期、吽形像は江戸時代後期の作だそうだ。僧寺の特徴である七重塔の礎石は、心柱と四天柱の部分のみしか残されていないが、その大きさに心柱の太さと高さの議論がはじまった。事務局による「塩飴」で塩分を補給し、国分尼寺へ向かう。国分尼寺では説明員から僧寺と尼寺の違い、ジオラマによる尼寺の配置、復元した金堂の基壇と回廊の特徴や苦労話などを現地で聞き、市原歴史博物館へ向かう。途中の稲荷台1号墳には暑さのため立ち寄りを中止した。博物館では、館長自らが説明役をされ、『歴博友の会ニュース』235号「歴博を歩く」の中で紹介した「イノシシ形土製品」の現物を見ることができた。また、稲荷台1号墳で発掘された「王賜」銘鉄剣は歴博で窒素封入ケースに収められ一時第2展示室で公開されていたが、市原歴史博物館開設に合わせ返却されたことに、感謝の言葉を述べられた。本品は展示されている特別室で間近に見ることができた。その他、荒久遺跡出土の灰釉花文浄瓶や三島台遺跡の穏やかな表情の人面付土器など、楽しい博物館であった。
コース 五井駅東口バス停 ⇒ 🚌 ⇒ 国分時代中学校前 ⇒ 南田瓦窯跡 ⇒ 神門5号墳 ⇒ 国分僧寺跡 ⇒ 国分尼寺跡・資料館 ⇒ 市原歴史博物館 ⇒ 🚌 ⇒ 五井駅(解散)
集 合 JR内房線 五井駅改札口 12:40 解 散 JR五井駅 16:50
案内会員 鷲見 博史、谷中 直樹、小池 裕、
長尾 純男
参加費 700円

南田瓦窯跡の説明を聞く

神門5号墳

神門5号墳の説明を聞く

上総国分寺石碑

仁王門前

将門塔(上総国分寺宝篋印塔)

国分僧寺の説明を聞く

七重の塔跡地

国分尼寺跡の外観

市原歴史博物館にて館長説明を聞く





11月

実施年月日  見学会名 備考
2024年 11月12日(火) 神宮外苑・青山霊園から乃木坂 参加:25名
 今回の見学会は一人の欠席者も無く、好天に恵まれた見学会であった。聖徳記念絵画館は明治天皇の生涯を80枚の壁画にした、見ごたえのある展示物であった。明治神宮外苑のイチョウ並木は、先端部から黄葉がはじまっていた。青山通りから梅窓院不老門までの間は、金明竹の林になっており、青山家の菩提寺でもある。この青山の地名は旗本から大名に出世した、青山忠成の下屋敷に基づくものだそうだ。その一角の青山霊園には、大きな面積を所有する大久保利通の墓や、忠犬ハチ公の小さな祠、佐倉に関係のある津田仙の墓などがあった。乃木神社に隣接する旧乃木邸の中には入れなかったが、十分楽しめた見学会であった。
コース JR信濃町駅 → 聖徳記念絵画館 → 樺太日露国境天測標(レプリカ) → 御鷹之松 →
イチョウ並木 (御観兵榎)・(明治神宮外苑之記碑)→ 梅窓院(青山通り)→
青山霊園 → 旧乃木邸 → 乃木神社
集 合 JR中央線信濃町駅改札口 13:00 解 散 地下鉄乃木坂駅 16:20
案内会員 谷中 直樹、林田 秀孝、浅生 武治 参加費 800円(入館料400円を含む)

JR信濃町駅に集合

聖徳記念絵画館

絵画館前にて記念撮影

色づき始めた銀杏並木

梅窓院にて説明を聞く

青山霊園に眠る津田仙の墓

青山霊園に祀られる忠犬ハチ公の碑

乃木神社







実施年月日  見学会名 備考
2025年 1月28日(火)   江戸城三十六見附を歩く第2弾
       日比谷見附から竹橋見附へ
参加:28名
 事前キャンセルや当日欠席者も無く、穏やかな日差しのもと、珍しく大群のスズメが合唱する中、見学会は始まった。配布された地図は見附の高麗門・渡櫓門や大番所(番所)が示さてれていて利用の頻度の高い資料であった。途中には江戸の行政をも受け持つ、南町奉行所跡(有楽町駅前)・北町奉行所跡があり、江戸は寺社奉行・勘定奉行・町奉行の3奉行体制で運営されているとの解説があった。また、参加者の案内で江戸城の保存石垣なども見ることができた。常磐橋見附の脇に建つ渋沢栄一は、明治の財界を盛り上げた人として新1万円札の顔となっているが、『徳川慶喜公伝』東洋文庫(平凡社)を出筆した文人でもあった。商人の財力により、日本橋商人町と神田職人町の間につくられた竜閑川は、日本橋界隈の商店の発達に寄与したことが伺える。また、江戸城築城の荷揚げ場所である鎌倉河岸も見逃せない所と言えよう。高層ビル群が立ち並ぶ大都会の中で、江戸時代の遺跡がこんなにも多く残っていることに感動した見学会であった。
 余談だが『3か月でマスターする江戸時代』がNHKeテレで放映されている。このテキストの放送予定日程の頁に、御門の築城時期の小さな絵が掲載されている。また、歴博名誉教授横山百合子先生が、3月5日(水)の解説者として出演されることを、お知らせしておきます。
コース 日比谷見附 → 数寄屋橋見附 → 南町奉行所 → 鍛冶橋見附 → 北町奉行所 → 呉服橋見附 → 常盤橋見附 → 神田橋見附 → 一ツ橋見附 → 雉子橋見附 → 竹橋見附
集 合 地下鉄日比谷線・千代田線・三田線
日比谷駅A10出口を上がった所
(日比谷公園前) 13:00
解 散 竹橋見附 16:00
案内会員 林田 秀孝、三橋 俊一、小池 裕、
谷中 直樹
参加費 500円

スズメの合唱で見学会開始

先ずは、日比谷見附で記念写真

南町奉行所跡が有楽町駅前に

鍛冶橋見附で説明を聞く

常盤橋見附の渋沢栄一像

常盤橋見附の日銀を背に記念写真

常盤橋見附の遺跡の石垣

神田橋見附

一橋見附の遺跡の石垣

一橋見附の前で説明を聞く

外堀の石垣

最後に竹橋見附で解散





3月

実施年月日  見学会名 備考
2025年 3月4日(火) 江戸のくらしを支えた銚子 参加:22名
 久しぶりの一日がかりの銚子の見学会は、 寒い北風の吹く中、慌ただしく始まった。
江戸の大都市化に伴い、紀州湯浅で売り出された醤油が銚子の地で生産されるようになり、醬油製造にたずさわる人びとの移住化が進んだようである。「紀國人移住碑」のある妙福寺で気になったのは、屋根に付いている紋である。本堂の屋根には中央に日蓮宗をあらわす寺紋、両側に五三桐の紋、そして横に並ぶ房の屋根には左から菊の御紋・七曜紋・葵紋とならぶ。五三桐は高崎藩初代松平家の紋なのか?七曜紋は千葉氏が信仰する妙見菩薩を表す紋なのか?興味が尽きない。
 この銚子の街は、ヤマサ醬油・ヒゲタ醬油や干鰯の生産などで街も大きくなっていった。その中でも、ヤマサ醬油の7代目濵口悟陵は故郷である紀州広村の名主として両国を往復しており、大地震に伴う大津波を予測し、収穫した稲束を燃やし村人を救った「稲村の火」で有名な人物である。また、銚子のコレラ対策などにも尽力し、関寛斎の長崎医学勉強費用を援助した。
 外川に向うため、仲の町駅に着いた時、以前実物を見たことのある初期の牽引電車の写真が飾ってあった。外川に向う銚子電鉄の車窓で感じるのは、ヤダケ林らしき竹林が目立つことであった。外川で興味があったのは次の4点である。その1つは佐倉でも見られるが地元産の銚子砂岩が多く残っていること。その代表は大杉神社に残る2つの社であろう。次は大杉神社の境内に船の錨が散在していること。その次は長九郎稲荷の鳥居に鯛と鰯の大きな飾りがあること。最後は外川漁港の奥に見えた千騎ヶ岩はジュラ期(1億5000年前)の地層であり、宝満は玄武岩であることから2000万年前位に火山活動が千葉県でもあったことになる。
 参加者から銚子の語源についての質問があり、土地の形状から付けられたとの説もあるが明確には不明であるようだ。船橋西図書館所蔵の中世期末の「下総国図」によると利根川の河口に「調子の口」とあり、この「調子」が「銚子」に変わったのかも知れない。午後の飯沼観音では、本尊である十一面観音菩薩の鑑賞、および本堂の天井画を拝見出来なかったことが心残りである。また、飯沼観音と銚港神社とが隣あっているのも不思議な気がする。川口神社には吉田松陰曾遊碑や龜の墓が見所であった。千人塚見学の後、バスでポートタワーへ向かう予定であったが、バスは大勢の客を乗せきれずと思ったのか、止まらず通過して行ってしまった。そこで今回の見学会は終了することになった。
コース 銚子駅 → 妙福寺(紀國人移住碑)→ 濱口悟陵の碑(濱口家7代目)→ 仲の町駅 🚆 外川駅 → 外川漁港(千騎ヶ岩) → 崎山治郎右衛門碑(築港の祖・街並造成) → 大杉神社 → 銚子石採石場跡 → 長九郎稲荷(宝満・長崎海岸)→ 外川駅 🚆 観音駅 → 高崎藩陣屋跡 →(各自昼食)→ 飯沼観音 → 銚港神社🚌 川口神社 →千人塚 🚌 銚子駅(解散)
集 合 JR銚子駅 9:15 解 散 JR銚子駅 15:30
案内会員 大野 吾一、鷲見 博史、野平 和男、
加瀬 良一
参加費 500円
※別途、市内電鉄バス乗り放題
1,000円と昼食代を要します。

妙福寺

紀國人移住碑

銚子電鉄 澪つくし号

外川駅にて説明を聞く

千騎ヶ岩

大杉神社

長九郎稲荷神社の鯛とサンマと鰯の鳥居

飯沼観音鐘楼門

飯沼観音五重塔

川口神社の説明を聞く









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